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まったくもって今更なのですが、メンショフのジロ後の記事についてです。
気がつけば、明日からツール!
(昨日チームプレゼンも見たっつーの!気分はツールだわよ!なんですが・・・)

ジロ直後のロシアサイトに載っていた、最初のコーチであるアレクセイさんとお母さんであるタチアナさんがメンショフについて語った記事です。
(えらく、長いし、どうしても訳しきれなかった言葉などがあるので、大雑把によんでいただけると嬉しいです。)



Денис Меньшов показал Европе Кузькину мать!
「デニス・メンショフ ヨーロッパをこらしめてやったぜ!」

オリョール出身のスポーツ選手が、あの有名なジロ・デ・イタリアを征した。
5/31の日曜日、伝説のロードレース「ジロ・デ・イタリア」が終わった。
最終ステージで、選手達はローマの街を走り、我らがデニス・メンショフはリーダージャージであるマリアローザを来てスタートした。
そして、デニスはゴール手前1キロで落車したにも関わらず、ダニーロ・ディルーカを引き離すことに成功した。


ファンファーレが鳴りやんだとき、デニスは故郷のオリョールへと向かった。
そこで彼を待っていたのは、彼の一番のファン達である、母、妻、妹(もしくは姉)、3人の子供達、最初の自転車コーチだった。
故郷に帰ると、デニスはいつも彼の恩師を自分のダーチャ(ロシアの別荘)に招待し、ともにシャシリク(ロシアのバーベキュー)やそりを楽む。
人生について語り、彼の教え子の勝利と健康に乾杯するのだ。


「大きな事をするのか?それとも農夫になるのか?」

デニスは11歳の時に地元のサイクリングクラブ「Орленок(鷲の子供という意味)」でロードレースを始めた。
子供の頃からスポーツが大好きだったけれど、ロードレースに対して、サッカーに夢中になるような、そんな特別な魅力というのは特にはなかった。
しかしコーチは「彼みたいな少年はどんなスポーツであってもきっと成功する。」と考えていた。

(ここからのコメントは全て、最初のコーチ:アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・アフォーニンさんのものです。)
「その当時、サイクリングクラブに少年達を集めなければならなかったんだ。
10番目に訪れた学校でデニスと出会い、地元の方がスポーツマスターである私と話すよう彼にすすめてくれたんだ。」

彼はクロスカントリースキーで学校まで通い、スキーを乗り回し、陸上競技もこなしていた。
最初のレース直後から「この少年はものになる」とコーチは思っていたのだが、デニス自身は一目でロードレースに恋に落ちたわけではなかった。

「最初の一年はまったくダメだったんだ。
そして、彼は釣りに夢中になってしまって、ほかのスポーツは目に入らなくなってしまったんだ。
私は彼の祖父と祖母のところへ行ってこう言ったよ。
『もし彼がスポーツを辞めてしまったら、農夫になってしまいます!』とね。
彼の祖母はとても厳格な女性だったんだ。」

この言葉は11歳の少年にとって厳しい物だったのだろうか?
その後、デニスは熱心に自転車のトレーニングをするようになった。
彼が最初に乗った自転車は伝説の自転車「ハリコフVZ(ソビエト・ウクライナ製自転車)」だった。
1994年にはイタリアの自転車は輸入されていたのだが、オリョールの少年にとって輸入自転車は夢のまた夢のものだった。

将来のスターは最初のレースに向けて熱心にトレーニングを積んでいた。
冬は森でのクロスカントリースキー、バーベル上げなどの筋力トレーニング。
夏は自転車に、サッカーやバスケットボールといったスポーツも行った。

「彼は子供の時から非常に忍耐強い子供だったよ。
とにかく長時間自転車に乗らせていたね。
私たちは普通、車で子供達の伴走をするんだが、デニスには時々、彼の自己責任で好きなところまで走らせたよ。
「行け!」という言葉をほかの選手たちよりも多く言ったと思うよ。
そんなとき、70~80キロは簡単に走っていたよ。」

彼の最初の重要な勝利は、ロシアジュニア選手権での優勝だ。

「デニスは私の顔なじみのコーチ、ユーリ・ユーリ・デヴェニンの目に止まり、彼からチェスカ(軍隊系のスポーツクラブ)に招かれたんだ。」

このチーム時代、1996年ソチで開催された成年向けステージレースにまだジュニアだったメンショフは出場し、なんと優勝した。
1999年にはスペインチームのバネストと契約し、現在はオランダチームのラボバンクに在籍している。

ところで、大多数のスポーツ選手とは異なって、デニスは食事制限をまったく気にしていない。

「彼は何だって好きなように食べているよ。」
デニス曰く『カロリーは運動すれば消費されるからね。
私は妻のつくってくれたフライドポテトが大好きなんだ』ってね。」

世界的有名人であり、過去に2度もブエルタ・ア・エスパーニャを征しているデニスは故郷の学校を助けるために、子供達に役立つ物を送る活動もしている。

「彼は私たちのことを忘れたりしないんだよ。」

「さあ、私は彼の応援に行かなくては。失礼するよ。私の子供が待っているからね。」
といってコーチは車に乗り込んだ。
このインタビューを行った日は、ジロ・デ・イタリアの最終日前の土曜日だった。


「オリョールのほうがスペインよりもいい!」

3週間のレース中ずっと、デニスのお母さんであるタチアナはいてもたってもいられない。
彼女は夜になると胸をドキドキさせながら、レース結果を確認し、そして翌朝もう一度改めて調べなおすのだ。

(※ここからのコメントは全て、デニスママのタチアナさんのものです。)
「今週は全然食べられないのよ!緊張しちゃって。」

デニスの部屋にある家具は優勝カップやメダルで飾られている。

「ここにあるのはジュニア時代のものだけよ。この部屋に他の人は入れないわ。」
といってタチアナは微笑んだ。

なぜ、目もくれなかったこのスポーツを彼は選んだのですか?という私たちの質問に、タチアナは肩をすくめた。
「私と夫は、子供達には学ぶべき何かが必要だ、とは考えていたの。
でも、ロードレースについては、まったく疑う事はなかったわ。」

しかし、今現在、なぜ彼は限界まで走っているのでしょう?
そんなにまでして走ることは必要ですか?
そして、彼は幸福だと思いますか?

「一番大切なことは、彼が後に後悔しないことだと思うわ。」

タチアナは、30年間、地元のデパートで働いている。
子供の頃からスポーツが好きで、自転車や、馬、スキーをのりこなした。
デニスが子供の頃の自転車といえば、小学校の頃、いとこからもらった大きすぎる三輪車が最初で、「Орленок」の時にはハリコフVZがすでに登場していた。

この15年間、家で生活する時間はほとんどなかった。
招集されては帰って来て、そしてすぐレースに向かう生活。
しかし、学校を休むことはなかった。

「彼は昔から記憶力がよかったわ。
例えば、詩なんかは、すぐに覚えてしまっていて、私も夫もびっくりしたものよ。」

優れた記憶力と明敏な知力は、彼のキャリアにとってとても役立つものだった。
こういった事をみても、彼にとって難しいことはあったのでしょうか?

「全てのレースはただ肉体的にというだけでなく、精神的にもとてもストレスのかかるものなの。
チェスの名人みたいに、全ての動きを計算しなければならないの。
自分の走りからライバル達を引き離すにはどうやったらいいのだろう?とかね。」

デニスはまた、外国語もすばやくのみこんだ。
学校が終わったあと、自由にフランス語で話す事ができる環境があり、外国へ呼ばれた時には、数年前からスペイン語を勉強していた。
デニスがスペインへ行って、既に10年となる。

「彼らはフランス国境にあるパンプローナに家を借りているの。
そこに、奥さんと子供達と住んでいるわ。
でも、彼らはオリョールにも住まいを持っているの。
メンショフと奥さんは故郷の街で出会ったの。
会計士をしているんだけど、いつも家族のために一生懸命しているわ。
レースから帰って来て、ナダーシャと会ったの。そして結婚したのよ。」

30ちょっと過ぎという年齢にしては、デニスは子だくさんのお父さんだ。
一番上はイヴァン6歳、一番年下はアガタ2歳半。
(※真ん中にアレクサンダー君4歳もいます。)

「彼らはパパの熱狂的なファンなのよ。
まだ赤ちゃんのアガタですら、レースの後に携帯電話をひったくって言うのよ。
『パパに電話して!!』って。」幸せそうにタチアナは話す。

しかし、ゴール直後のデニスは、すぐにジャーナリストやコーチ、医師、ファンに取り囲まれてしまう。
ようやく数時間後に妻と母に数分電話できるだけだ。

「彼は私たちにはレースについてほとんど話さないのよ。」とタチアナはため息をつく。
「聞いてみたいわ。彼自身どう思っているのかをね。
でも、全てはうまくいっているわ。
中継中の彼の表情をみていればね。時々難しい事もあるけれど。」

タチアナによると、デニスはずっとスペインに住むつもりではないのだという。
外国で働いて、ロシアに住んでいるのである。
ラボバンクでの関係はうまくいっているが、結果を出すことが必要だともタチアナは言う。


デニスは数日自由にできる時間があると、オリョールに帰ってきては走る。
だいたい秋頃や、オフシーズンで月に3~4日くらい。
その時デニスはコーチや友人達と一緒にお風呂や狩りを楽しむ。
シャシリクのためにみんなでドライブもする。

「でも、いつだってトレーニングのことは忘れないのよ。」

デニスが走るとき、家族はみんなでソファーに座り、そして祈るのだが、これまでのところ全てはうまくいっている。

「私はいつもデニスに言うのよ。
『ヨーロッパの連中をこらしめてやりなさい!』ってね。」
タチアナは笑いながら話した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんというか、大らかなお母さんが素敵。
「ヨーロッパの連中をぎゃふんと言わせてやんなさい!」なんて。
ロシアのどんと来い!お母ちゃんなんでしょうね。

当時のソビエトというロードレース選手になるにはあまり恵まれない環境にいて、ここまでこれるには、最初のコーチや家族、友人達の応援なしにはとうてい無理だったでしょうね。。。
今でこそ、ロシアも変わってきていますが・・やはり当時は全く違う世界だったと思います。



ささ。
いよいよ明日からはツールです。
ツールの話題もいろいろあるのに、全然手が回らない~~~。
ぎゃぼ~~~(古い・・・)。



とりあえず、
カルペツ&メンショフ、ベンガ!
別府フミ&アラシロ、がんばれ!
フォイクト&ブルセギン、アレ!

あああ~こんな事いっててもしょうがない・・・。
すばらしいツールを待ってますよ。みなさん。


Secret

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